創作  ― 杓子 ―

〔ジャンル〕=山岳、SF・ファンタジー

   杓 子  (※未校正)
             ももない康詩

 山好きにとって、山の近くに住んでいればそれだけで幸せかというと、あながちそうとはいえないようです。総じて一度もそこに、足を運ばないということはないでしょうが、普段から足しげく通うわけでもないでしょう。それは各々が魅力を感じる山々に引かれ、主としてこちらを訪れるからなのでしょう。
 私の住む東京近郊にも、手頃な山は多くあるのですが、やはり山に登っているという手応えを求めたくて、ちょいとその先へと、足を延ばすことがしばしでありました。このあたりの多くの山の先達に「近くて手頃な良い山」ということで伺ったときにも、出てくるその名前の殆んどが、谷川連峰であったり、八ヶ岳であったりするのです。
 そして、私にとってのそれは、北アルプスの最北端に位置する、白馬岳がそれに該当しました。
 何で日本海に迫る白馬岳が、谷川連峰八ヶ岳より手頃なのか。確かに近いとはいえませんが、山小屋や登山道がしっかり付いていて、アルペンハイクの入門コースと言われるくらいに安心して挑めること。そして、麓までの交通手段、特に駐車場や車道が整備されていることから、山登りの計画が作れなかったときでも、ふらりと気ままに出向くことができるところであるからなのです。

 その年の夏も、いつもの山仲間と山登りに行く約束をして置きながら、各自の都合の折り合いが直前になってもつかず、窮余のこととして、――いや、実はこうなることは毎度のことなのですが、猿倉から入って白馬三山を巡るコースを歩くことにしたのです。
 夜更けに自宅を発ち、車で相模湖から中央高速道路に乗って豊科まで、そこから一般道路を走って未明には猿倉に着きました。かなり時間がかかるだろうと、腹をくくってはいたのですが、車は夜の闇の中を飛ぶように駆け抜けて、猿倉に着いた頃には、まだ星が瞬いておりました。拍子抜けしたものの時間が浮いたのでひと休み。夜明けを待って登山に掛かることにしました。
 しかし山登りが趣味だからといって、必ずしもすいすいと登れるとは限りません。やはり普段の行いがものをいうようです。
 このときの面面は、悟朗と埴さんの二人でした。私も含めた三人共に、普段は机に向かっていることが殆んどで、ただ、その中でも悟朗だけは、これでは体が訛ってしまうと言って、地元のエアロビクスに通っていました。あとの二人といえば、なんら日頃ろくに体を動かすようなことをしいなかったのです。
 歩き始めたとたんに両者の違いは明白でした。方やすたすたと小気味良く距離を稼いで行ったかと思えば、後からはずりずりと重い足取りで歩いていく二人組といった具合で、最初のうちは要所要所で立ち止まって待っていてくれた悟朗も、余りの遅さにしびれを切らして、頂上小屋で落ち合うことを打ち合わせると、とっとと山道の先へと消え去って行ってしまいました。後に残された埴さんと私の二人で、普段より体を鍛えておくべきだったと、ぼやきながらも、またずりずりと足を引きずるように、コースタイムの倍の時間を掛けて、彼の消えた後を追って行きました。
 さすがに白馬岳は、北アルプスの中でも雪と高山植物が随所にちりばめられているせいか、多くの人を引きつけてきます。この日も例外ではなく、白馬の大雪渓の登り口にたどり着きますと、その雪の上を人の列が途切れることがなく、雲の彼方へと連なっておりました。ときおりガスがかかってきますと、どこまでが雪で何処までが雲かが見分けられずに、ただ人の列だけがぼうっと浮かび上がりながら、天上へ向かって歩いて行くようにも見えて、それが幻想的にすら感じられました。
 雪渓を登りきった先はお花畑に囲まれた山道でしたが、胸を突くくらいの急登もいくつかあって、あえぎあえぎ登る私達にとって周りの花々を愛でる余裕もなく、自分達の足元ばかりに視線を落として、背中を丸め足を引きずるようにしてただ標高だけを稼でいたのです。そんなわけですから、頭の上から悟朗の呼ぶ声が聞こえて、見上げてみて始めてそこが頂上小屋の真下であったといった按配でありました。
 たどり着いて時計を見ると、やはり普通の倍の時間が掛かっておりました。私も埴さんもへとへとになっていましたが、悟朗だけはケロッとして何でもなかったような顔をしていました。聞いてみると別れてから何と二時間も掛からないで登ってしまったということ。待てど暮らせど来ないからひと寝入りしてしまったということでした。あっけにとられてしまったのは言うまでもありません。確かに倍の時間を掛けた私達も尋常ではなかったのでしょうが、それ以上に通常の半分も時間を掛けずに登り着いた彼の行動力の方が常軌を逸しているように思えました。
 もちろん、どちらが普通でないのかその夜の小屋の中で、三人の間で言い合いになったことは、いうまでもありません。

 翌朝朝日が昇るのを頂上で拝んでから、私達は白馬岳を後にしました。この日の行程は白馬三山のうち、杓子岳、白馬鑓ヶ岳をまわって、鑓温泉から猿倉へと戻るかなり長い行程でした。が、今日は下るだけであったのと、歩き慣れていたコースだったので、昨日とは違って足取りも軽く稜線を進んで行きました。
 何が素晴らしいかと言って、朝日に輝く稜線ほど素晴らしいものもないでしょう。
 朝の光に山全体が黄金色に萌え、可憐な高山植物たちもまた朝露をそこここに含んで、射す日を受けてきらきらと輝いている。見るものの目を見張らせるそんな素晴らしいひとときがそこにはありました。
 もちろん、そんな光景をほおっておく手もありません。私達もおもむろにカメラを取り出すと、目の当たりにしたすべてのこの美しい一瞬を、手当たり次第にファインダーに納めていきました。特に埴さんは自慢の愛機を駆って、私と悟朗がひとところを撮り終えた後も、望遠だ、接写だのと手を代え品を代えて写真を撮り続け、あまっさえ熱中するあまり、
「写真を撮るので時間が掛かるから、先に温泉に行って待っていてくれ」
 と、言い出す始末。
「やれやれ、まだ歩き始めたばかりなのに」と、思いつつも、もっとも埴さんにとっては写真もかなり力を入れている趣味でしたから、しょうがないなとあきれつつ、二人してゆっくりと山道を進んで行くことにしたのです。
 白馬三山の縦走路を、来た道をしばらく戻って、今度は稜線沿いに進んで按部に下って登り返せば、もうその山は白馬三山のひとつ、杓子岳です。しかし実際の登山道はその黒部側の肩を巻いて通っているために、肝心の頂上を通ってはいません。ただその巻き道からいくつかの踏み跡が、その頂に向かって着いているだけなのです。しかしどれもが急なので、たいがいは巻き道を通っておりました。
 けれどもこの日は時間に余裕があったことと、埴さんを後にしてきましたから、ここでは大廻りをしてみようということになりました。もちろん、抜けるように青く晴れ上がった空に引かれたことも、その理由にほかなりませんが。
 平らに続く横道を横目に見て、ジグザグな登りに取り付きました。胸突八丁とはいかないまでもかなりの斜面です。私は喘ぎ気味に、今までよりペースをダウンしたのですが、やはり悟朗は昨日と同様、そんな私を軽く追い抜くと、息付く間もなく距離を開けて、あれよあれよと思ううちにとっとと先へと行ってしまいました。
 またしても取り残される形となってしまいましたが、昨日とは違って、焦りを覚えるようなことはありませんでした。
 何よりもすでに稜線に出ているということで、気持ちに余裕がありましたから、あまり気付かなかった道端や岩陰に、張り付くように咲いている可憐な高山植物を楽しんだり、どこまでも見晴らせるすきとおるような景色を眺めたりしながら、気にせずに一歩一歩自分のペースで、斜面を登って行ったのです。
 杓子岳も白馬岳と同じように白い山です。山は白い岩礫と、その岩が風化して出来た砂礫のザレた斜面によって出来ています。場所によって遠くから眺めたときに、日に焼けて赤茶けて少しでも薄汚れたり、岩影やハイマツに覆われたところだけが、アクセントとして目に写るのですが、こうして身近にその斜面に立ってみると、山全体が白い山なので、どこが影になっていたところなのかがわかりません。ただよく見るとその白い世界の中でも、砂礫の斜面の所々に淡い薄桃色の霞がかかったように浮かんでいるところがありました。だんだんゆっくりと登って近づいてみれば、それは一面のコマクサの群落でありました。その一つ一つが霞のつぶてをその花や枝葉に含ませて、それを集めたしずくの一つ一つに朝日が吸われて、まさにきらきらと、今度はそれを薄桃色の光をつぶてに変えて、あたりに放っていたのです。
 その様を見ただけでもたまらなく嬉しく思えてました。重い荷物を担いでいるせいか、ほとんど視線は下に落としたままだったのですが、そうした視界の中であってもこれらの宝石が、向こうの方から飛び込んできてくれるのです。よく見れば踏み跡の周囲に散らばるようにこの美しく輝く花々が点在しておりました。いちばん近いところにある花にそっと触れてみると、その花びらにたまったしずくが、そっと手のひらにつたわってきます。試しにその小さなしずくを口に含んでみました。味というものははっきりと感じられませんでしたが、薄く甘味を帯びているようにも思え、またそのときには身体が清められるような新鮮さも覚えましたから、何となく神仙が霞を食って生きているということを、信じてもいいように思えました。

 さて、そういうように気ままにあたりを眺めては悦に入ってきたのですが、ふと、視線を進行方向に向けるますと、悟朗が立頂上付近でち止まっております。始めは私を待ちくたびれて、様子を伺いに出てきたのだと思っていたのですが、どうも違うようです。こちらの方には背を向けたままで、ずっと前の方を見ています。もしかして、埴さんが先回りでもしていたのかとも思ったのですが、どうも何かとんでもないものでも見つけたのか、あるいは予測のつかないものにでも出くわして驚いているのか、つっ立ってたままでいつまでたっても動く素振りさえ見せません。
 ついに最後のの傾斜を一気に登りきって、彼に追いついてしまいました。
 ためしに、彼の側に寄って、
「どうしたい、オコジョでも出たのかい」と、声を掛けてみたのです。
 悟朗は始めはぽかんとしていて、私の来たことにも気が付かないようでした。まるで魔法から解かれたように、私の声にこちらを振り向くと、また向き直り前方を指さして、
「前に来たとき、あんなものあったっけ……」
 そう私に確認を求めてきたのです。
 今度はそう悟朗が尋ねてきたので、その視線の先を見やると、確かにそこには、ほとんどこの場に似つかわしくないものがありました。
 それはここから見た限りでは、黒光りする何かの石でできた、石柱のようなもの……と、いうよりむしろ、墓石のように見てとれたのです。
 何でこんなところに墓石があるのだろうか。まさか遭難した人のものではあるまいか。その時にはこんな思いが頭をよぎり、一瞬恐ろしささえ感じたのですが、すぐにその考えを否定し去りました。そうでないかもしれませんし、見ただけではわかりません。ともかく近寄ってみることにしました。
 それは頂上を覆っているハイマツの切れ目の、砂礫の地表の上に、しっかりと根を下ろすように几帳面なまでに真っ直ぐ立っていました。すべての面という面はつるつるで、その表面とおぼしき側には、
  ―― 自然の杓子 ――

   これらのものはすべて
        あなたがたのもの
    ただしもちかえったり
         ふみにじってはならない
   あらゆるものを
        あるがままに
    そっくりそのまま
         たのしみなさい

 と、いう文言が、そこには刻まれていたのです。

「なんだ、展望盤か追悼碑かなにかだと思ってた。人騒がせな」
 悟朗はこれを見るなり、そう言いました。どうやら彼も、私と同じ様なことを考えていたようです。
 私もこれで墓石ではないかという疑念が晴れ、気持ちあった緊張が解けたました。特に読み取ったこの文言については感心したのですが、次に浮かんできた疑念は、誰がいつ、何のためにこんなものをここに据え付けたのだろうかということでした。
「うまいこと言っているなぁ。けど、前に来たときにこんなものはなかったと思う……。いったい何なのだろうか」
 答にはなりませんでしたが、先ほどの悟朗の問に、遅ればせながら私はこう答ました。すると、悟朗も、
「さあ、でもこんなことが記されていることから察すると、なにかの記念碑なんじゃない」
 記されているものの真意がわからない以上、この場ではこれ以上の判断は出来そうもありませんでした。
 この記念碑とおぼしきものの隣には焦げ目をつけた板に白ペンキで、「杓子岳頂上」と記された銘板が打ち込まれていました。けれども、以前――というより、それは昨年の夏のことなのですが――ここを訪れたときには、この場所には確かこの板だけが刺さっていたはずなのです。いつの間に工事をしたのでしょう。考えられるのは昨シーズンの秋頃か、今年の梅雨明け頃ではないかと思えるのですが、もしそうだとするならば何らかの工事の痕跡が残っていてもいいはずです。それだけではありません、
 「どこまで深く基礎を打ち込んでいるのだろう。コンクリートの基台さえ見えないよ」
 悟朗がそう言いましたので、二人で試しにこの碑の根元のザレた砂礫を払いよけてみたのですが、やはりかなり深いところから立ち上がっているようで、基礎を確認することなどまったくできませんでした。いや、この周囲にはコンクリートのかけらさえ見当たらないのです。これだけのものを設置するのですから、余計なコンクリートのかけらが転がっていてもいいと思えるのですが、碑のどこにもコンクリートを使ったような形跡が見えません。この山の山頂を掘りくりかえして埋めたのでしょうか。それにしても短期間で人の力だけでは及ばないくらいに根が深く作られているようですし、それではとうていこれほど水平面から鉛直に立たせることなど不可能でしょう。なのに周囲を見回してみたのですが、どこにも工事をした跡は伺えないのです。それどころかまるで以前からそこにあるかのように、その碑は自然とその位置に納まっているのです。
 不思議なことといえば、この石碑の形も不思議でした。直方体にしてはずんぐりむっくりとしていて、ふだん街中で見かける記念碑や墓石とは、おおよそ似ても似つかない形をしていました。石材にしてもそうです。普段普通に見かけられる黒御影石よりも、ずっと透明で、ガラスのような感じがします。さわってみたときの感触も、御影石のようなひんやりとしたものではなく、もっと張りつめたような冷たさにさえ感じられました。
「これ、黒御影石じゃないよなぁ」
 私はそう言いながら、今度は親指と人指し指でその大きさを測ってみました。ちょうどその奥行きを一とするなら、幅が二、高さが三となる比率のようです。
「もしかしてこれ、黒曜石でできているのじゃあないか」
 悟朗のその言葉に、私もはたと思い当たりました。確かに触れてみたその感触は、まさしく郷土資料館などで触れてみた縄文時代以前の石器のそれでした。ガラスのような火成岩である黒曜石。かの時代にはそれがナイフややじりとして使われていたのです。
 でも、なぜ黒曜石の碑がこんなところに。もっとも信州は一大産地なので、ここにあったとしても、たいして不思議ではありませんが……。
 しかし私はまたそこで新しい疑問にぶつかってしまいました。そう、ガラスのような切れ味を持つ黒曜石は、広く石器として使われてきましたが、それはまたこの石が叩くと一方向に割れやすいという石の性質を有し、手軽に加工しやすかったためなのです。逆の意味でいうならば、ガラスのように割れやすい、もろい石材であるのです。しかしそんな石材をわざわざ碑に使うために選ぶものでしょうか。それに、
「本当に黒曜石なのかなぁ。それにしては全然碑にはなんらの傷もついていないぜ」
 そう言って、私は悟朗の問いかけに疑問を示しました。これだけ気象変動の激しい山の頂にあるのですから、当然強風に吹かれ舞い上がった石のつぶてや雪や氷の塊を相当受けているはずです。当然それらの攻撃にあって碑の表面は傷がつき、周囲にその石屑が散乱していてもいいはずです。なのに、そんな形跡など、あたりにまったく見られないではありませんか。
「ためしてみようか」
 悟朗も奇妙に思ったのでしょう。彼は自分の腰にくくりつけていた、いつもは私達がひどい薮道に迷い込んだときにお世話になっている、刈り払いに使うにしてはもったいないくらいのアーミーナイフを取り出すと、そのエッジを碑にあてがおうとしました。削ってみればわかるだろうということでしょう。が、もちろん私は止めには入りました。
「やめとけ、やめとけ。黒曜石だったらあてどころが悪いと、この碑がまっぷたつになるくらいのひびが入るぞ」
 そう言うと、悟朗もすぐに察してか、あわててナイフを引いてしまい込みました。なにせ相手はもしかするとガラスなのですから、粉々になってしまったらそれこそとんでもないことになってしまいます。その後も悟朗と、いったい誰が何のために立てたのだろうとか、この碑文はいったい何を意味しているのだろうとか、あまっさえこれは国立公園管理事務所の許可をとった建造物なのだろうかとかを話し合いましたが、どれも推測の内を出ることができないままに、何枚かの記念撮影をしただけで、その時は杓子岳の頂上を後にしました。道の途中で何回か振り返ってみたりもしたのです、それも下り坂にかかると勾配に隠れていつしか見えなくなってしまいました。頂上からくる踏み跡と本道の合流点で、ちょうどうまく登ってきた埴さんと合流し、しばらくは展望を楽しみつつ、稜線を闊歩しておりましたが、白馬鑓ヶ岳から鑓温泉に下る道のあちこちので、盛んに咲き誇る高山植物、特にチングルマなどが見事なのに出くわして、また写真に撮ったりながめたりと足止めを食ってしまいました。その間にも悟朗はまた私達を置いて先に行ってしまい。鑓温泉についたときには、彼はもうひと風呂浴び終わって、小屋の縁台でビールを片手にくつろいでおりました。

 その山行から一週間経ったある日、私は所属する山岳会の集会に出席していました。集会と言っても飲み屋の一杯会で、もちろん悟朗や埴さんも会員でしたから、近況報告かたがた、先週出かけたときの写真を持って行ったのです。たいていは会員それぞれどこの山に出かけたかをこのように写真を持ち寄って、それを示しながら報告し、そこでの感想を述べるのが普段の形式でありましたから、その日も自分達の撮ってきた写真をサカナに、私と悟朗、埴さんで報告を行ったのです。
 しかしそのほとんどは埴さんの写真とその講演会となってしまいました。もっとも山岳会のみんなが、埴さんが写真撮影も趣味にしていることを知っていましたから、なんらの異存も起きません。もちろん私や悟朗の撮った写真も皆に廻してはいたのですが、その出来の違いはまさに月とスッポンでありました。
 写真がひととおり見て廻られたところで、埴さんは感想を求められ、
「そういえば今回は、かなりバカ速く歩くヤツがいて、まいったと言うかあきれた」
 と述べれば、悟朗は悟朗で負けずに
「今回は日頃おこないが良くないヤツがいて参った」と言う始末。アルコールも手伝ってか
「普通五時間かかる道を一時間半で登なんていうのは、尋常じゃない」
「何を言うか。普段から体を鍛えておけば、そんなことなど関係ない。山登りはやはり体力がものを言うスポーツなのだから、基礎体力をきちんと確保していなければ、当然バテるに決まってる」
 という言い合いが始まり、会の議論の中心は速く登山することの意義と、普段からの体力づくりに論点は移って行ったのです。結論は人には人の楽しむペースがそれぞれにあるということと、やはり普段から体は鍛えておかなくちゃいけないというところに落ちつきました。
 会も終わりに近くなったときに、会員の一人が、
「あれっ、これはどこ」
 といって指し挙げた写真がありました。見るとそれは杓子岳の上で撮った私と悟朗のものでした。
「ああ、それは杓子岳の山頂です。いつのまにかそんな珍しいものが立っていたんで、記念に撮ったんですよ」
 そう答えてから悟朗と二人で、去年出向いたときにはなかったことや、黒曜石らしいもので出来ていること、奇妙な文言が刻まれていること、それに何より不思議なことに工事をした跡が何処にも見受けられず、ずっと昔から立っていたようにそこにあったことなどを話したのです。
「そういえば、去年俺達が登ったときには、こんなもの存在しなかったよなあ」
「いつの間に、誰が立てたんだろう」
 席のあちらこちらでこんな声が上がってきました。どうやら終わりかけた会がまた振出に戻ってしまったようです。

 その中でもいちばん興味を示してきたのは、会の先輩格に当たる谷山さんと、今度同じところを登りに行くという見目君と船木さんでした。特に山岳系の雑誌や文芸誌に記事を書いている谷山さんには、なんと今月末に出る週刊誌の参考にしたいと言い出されてしまい、
「今週末に出るアウト・ドア系の週刊誌のコラムをやってくれって頼まれたのだけど、いいネタがなくて困っていたんだ。ちょうどいい話しだと思うから、あった場所だけ教えてくれないか」
 と言いながらも、もう内の山岳会の中でも写真の腕では五本の指に入るという大先輩の下田さんを誘って、
「来週さっそく取材かたがた、白馬方面に行ってくるわ」
 と言われては、こちらも次の句が告げられず、ただ早くも予定を決めてしまう行動力に、三人とも今更ながらに舌を巻いてしまいました。
 対象的に見目君と船木さんのグループは、初めて登山をする人を引き連れての、いわゆる入門登山の途中に立ち寄りたいとのことで、ゆっくりと計画に組み入れたいということでした。こちらには山や道の状況、見所などの話しも併せて、場所を変えてまでかなり話しに花が咲いたのです。

 その月末になって、谷山さんから手紙が届きました。中を開けると幾毎かの写真と共に、
「いい原稿が書そうです。ありがとう」
 と達筆にしたためられた手紙が入っていました。
 写真は下田さんが撮ったもので、私や悟朗が撮ったスナップ写真よりも鮮明に、刻まれている一文字一文字が読み取れ、何より凄い迫力を持って迫ってきました。手紙には取材に行くまでそのような石碑があることを地元の人も知らず、あまっさえ小屋番の人も知らなかったこと、それ故にいったい誰が立てたのかもわからなかったこと、石の材質も突き止められなかったし、何よりその根元も深く、まるで地の底から迫り出したようにも感じたことなどが記されていました。
「ただやはり表面に、碑文が刻まれていることから、また正確に鉛直に立っていることからも、誰かがここに立てたものには間違いないであろう。問題は、その意図ではないかと思う」
 そう記された手紙を読みながら、またあの石碑を目の当たりにした時を思い浮かべてました。遠くから見たときには、あれほど不気味に思えたのに、近寄ってその碑文を読んだとき、あるいは触れたときに、感じられた親しみの様な感慨、あそこに記された文言の一つ一つは、いかにもお説教臭いものであったのに、いちいち納得させられてしまった‥‥‥。しかしいったいこれは何を意図しようとしているのでしょうか。

 電話のベルがなりました。取るとそれは悟朗からのものでした。
「おい、大変だ。聞いて驚くな」
「あわてて。いったいどうしたのさ……」
「例の石碑が、杓子岳の石碑が消えたそうだ!」
 何を寝ぼけたことを、と思ったのですが、悟朗の声は真剣でした。話しによれば情報はまず見目君と船木さんから伝わってきたそうです。二人が総勢十二人くらいのパーティを率いて白馬岳から唐松岳へと向かう途中、杓子岳に寄って見たときには、確かにそこには黒い石碑があり、くだんの碑文が刻まれているのを確認したそうです。そこには噂を聞きつけたのか結構登山者がいて、めいめい石碑に触れたり、記念撮影をしたりしていたとのこと。しばらくして杓子を発ち、白馬鑓ヶ岳にかかったところで、メンバーの何人かが高山病のようになったため、とりあえず唐松岳に向かうことを断念、白馬岳に戻ることにしたそうです。
「戻ると決まったら不思議と元気になって、杓子岳の下まで来たときに、また石碑を拝んでいこうということになったんだそうだ。それでもと来た道を戻って頂上に着いてみたら……」
「……跡形もなくなっていたというわけなんだな」
 もちろん驚いた見目君と船木さんのメンバーは全員であの頂上を探しまくったそうです。切り立った谷側の絶壁も覗き込んでみましたが、やはり見当たらなかったそうです。何よりそれが立っていた場所に、そんなものがあった形跡がなく、ただ頂上の標識が立っていただけだったとのこと。
「……とにかく驚いて小屋の人や他の登山者にあたったら、みんなびっくりしてあたりを探したそうなんだけれど、やはり何にも出てこなかったそうだ。その一報が俺と谷山さんにきて、谷山さんが取るものも取りあえずすっ飛んでいって、その状況を確認して俺のところに連絡をくれたんだ。みんな狐にでもつままれたような気分だそうだよ」
 と、言われたところでにわかに信じられるものではありませんでした。ふと手元にあった下田さんの写真を見たところで、それはちゃんとそこに写っているのです。
 けれども悟朗との電話を切った後で見目君と船木さん、あまっさえとうの谷山さんから高ぶった声で現地から電話がかかってくるにおよんで、ついに疑念の雲をかき消さなくてはならないと思うようになったのです。悟朗はともかく、後輩にあたる見目君と船木さんが私をかつごうとしているとは考えられず、また先輩の谷山さんにしてもそういう冗談は嫌い人なのです。何より悟朗にしても、こんな下手な人のかつぎ方などしません。それに、あの石碑こそ、そこにあったこと自体が不思議なものだったではありませんか。
 私は再び電話を取ると、悟朗と埴さん、それとこの間は一緒ではなかったけれど、昨年は共に杓子岳に登った国分さんに連絡を取りました。
 もちろんこの秋口にでも再び白馬三山、杓子岳を訪れ、確かめるためにです。

 同じ山の同じコースを、一シーズンに二回訪れることなんて今まではありませんでした。しかし季節を変えてならば、それは結構いいものなのかも知れません。山道を登りながらそう感じられました。山の上の方では、里より早い紅葉が訪れ、夏とは違った風情を醸し出してくれていたからです。もっとも、よくは言われていたことではありますが、やはり身を持って体験してみなくては、その良さというものはわからないようです。
 しかし秋の厳しさは標高を上げていくにつれて、伝わってくる冷たさからひしひしと感じとれてきました。夏の山嶺の気は、万物を生かそうとして爽やかさを伝えてくれていたのに、もう秋に入ったとたんに、すべてを眠らそうとする冬の匂いをたたえているのです。かじかみながら小屋にたどりつくと、この間夏が終わったばかりだというのに、もう小屋にはストーブが入っておりました。
 翌朝さっそくに杓子岳へと向かいました。始め心に中にはかつがれているという思いが半分、そして本当にどうしてしまったのだろうかという驚きの思いが半分であったのですが、現地に到着してみると、かなりの騒ぎになっていて、これは人一人かつぐにしては大げさすぎるというようにさえ感じるようになりました。それに元より奇妙なものだっただけに、突然消えていたとしても不思議にはないなと、思うようにもなっていました。
 だからやっぱりそこに、石碑が立っていたとしても、何等の感慨を思い浮かべることもなかったでしょう。
 やはり石碑は、ありませんでした……。
 ――そこには一昨年来たときと同じように、石碑のあったあたりに、焦げ目をつけた板に白ペンキで、「杓子岳頂上」と記された銘板が打ち込まれているだけでした。かけ寄ってみてあたりをくまなく見たり、ほじくったりしたのですが、何も出てはきませんでしたし、なにより、
「何にも変わったところなんて、ないように見えるけど」
 と、言う国分さんの言葉に、きっぱりと調べることをやめる決心が着きました。
 では、私達は幻を見ていたのでしょうか。いや、そうではないことに同じものを多くの人が見ているのです、なにより手元に写真があります。
 では、ここにあったものはどうして消えたのでしょうか。いや、もしかするとこの問いかけは間違いかもしれません。なぜなら、すでにどこから来て、何のためにここにあったのかがわからないのですから、結局はその答を求めることの方が、無駄なことなのかもしれません。
 ……では、あの石碑は何であったのでしょう。
 ここでふと気が付いたことは、至極簡単なことでした。あの石碑はある意図を持っていたから、ここにあったのです。では、その意図とはいったい何であるのでしょうか。そのことについての私の推測したことはこんなことでした。
 ――その意図とは、石碑が示していたものに他なりません。では石碑が示したものというと。それはあの碑文の文言「自然の杓子」に他ならないのでしょう。しかし何で今ごろになって「自然の杓子」なるものが我々に示されなくてはならなかったのでしょうか。

 しかしこの問いかけは、別の意味では余りにもわかりきったことではないでしょうか。現代に生きる人間のどれほどが、この問いかけに対して後ろめたさを感ぜずにおれるのでしょう。あるいは、そう言える資格を持っていると言えるのでしょう。 ほとんどの人が、今まで自然に対してきた態度を考えて、臑に傷を持っているかのように、こそこそと影に隠れてしまうことでしょう。開発しかり、環境破壊しかり、現代人が自然に対して、この言葉に耳を傾けなくてはならないような仕打ちをしてきたことは、余りにも明白だからです。
 それこそ、自分の生存が脅かされるにも構わずにしてきたではありませんか。
 原始の昔から、人は自然の恵みを享受して生きてきました。それは現代においても、なんら変わるところはありません。しかし人は今までに、それが自分達にとって都合のよいものであるのなら、それこそ、徹底的に際限がないくらいに、そのことを実践してきました。だから自然の恵みをより多く取ることができれば、それだけ生きるうえで楽になると知ったときにも、それをそのまま行うことになんら抵抗を感じなかったのです。
 現代のそれは原始の昔とは比較にならないくらいに、より多くのものを自然から奪っていく形になったのだと思います。結局自然の恵みにも限りがありますから、いちど奪われたものは、そう簡単には戻らず、むしろ失われてしまったものも数限りなくありました。この廻りに咲いたてた高山植物でさえ、取り付くされてしまえばそれまでです。ついには奪いつくしてしまったことで、自分たちが生きる上で必要な環境さえ失う危機に陥ったのですが、そうは言ったところでいちど味わった快適さを失いたくはありませんでしたから、それによって悲劇に陥ることがわかりつつも、その手を止めようとはしなかったのです。
 ――自分で自分を律することができない人々――この意味でまだ人は、まだ未熟でした。未熟者にはときとして、その先達がその進むべき道を教える必要があります。
 人はその生き方、考え方において、原始時代とさほど変わっていないのでしょう。では、明らかに違うことは……?それは、人と人とがたがいに意志を伝え合うことが出来るということに他ならないのではありませんか。ただ石を道具としてふるうだけではなく、言葉を用いてよしみを通じようとし、文字を用いて意見を示す。そういう心の交流が、現代の人はとることができるのです。
 ならば、ある基準を示すことで、限度を知らない人々を戒め、調和を促したとしてもおかしくはないでしょう。その意味ではあの石碑は人が立てたのではなくて、人とは違うものが立てたのです。
 それは宇宙人なのでしょうか、それとも霊魂が立てたものなのでしょうか……?
 あるいは、そうかもしれません。けれどもっと、確実にその対象を指し示すとするならば、それはこの身の回りにある『自然』そのものが、私達に向けてメッセージを放つために立てたものなのかもしれないと考えることです。
 ばかな考え方かもしれませんが、どう考えたところであの文言を我々に指し示せる存在というのは、この『自然』以外に思いつくことが出来なかったのです。なぜならばこの周りにいる人間すべてが、あのような文言を書き示す必然性がないのですから。あるとすればそれこそ、あの言葉の指し示す『自然』そのもの以外に、考えつかないのです。
 あそこに刻まれた文言の一つ一つは、私達に向けて『自然』への触れ方を、そう、文字どおり楽しみ方を述べていることには間違いはないでしょう。そして、そのようなことを人に言えるものが何かというなら、それは見渡したところ『自然』そのものしか見当たらないのです。
 ですがそれには、それだけきちんと理解できるだけ、受ける人の側にも分別が備わっている必要があります。してみると、今の人はそれだけ進歩しているのだと相手も認めてくれたのではないでしょう?。
 石器に文字が刻まれていて、それが理解できるのならば頭の良い証拠。ならば、この小言くらい耳にして、考えてみなさい。そう自然が言ったようにも感じられるのです。
 ではなぜあの石碑は消えてしまったのでしょうか。その理由も簡単なことです。結局あの石碑が『不自然なもの』にほかならなかったからなのです。
 ……でもそのかわり、その姿の虚像と、伝えるべき言葉は残りました。
 言葉は気持ちを伝えるものです。この言葉がつながる限りは、心も通っているから大丈夫。そういうことなのかもしれません。
 ――まだまだ人は自然から見放されてはいなかったようだ――これが、私の考えついた結論でした。そしてこう考えることで、納得することにしました。
 高いところというのは、天が近いせいか、ふだん考えつかないような大きなことを考えつくようようです。
 この日も、秋にふさわしくどこまでも空が高くて、澄み渡るような展望が楽しめました。

 後日、谷山さんの記事が雑誌に載り、夏山のミステリーということでかなり騒がれたのですが、そのころには白馬三山ともに初雪をかぶって、里の騒ぎなど気にもとめずに、春までの長い眠りに着いたのでありました……。

《1993年12月1日発行 山の文芸誌『ベルク』No.64号に筆名・和曇江藹楽にて寄稿掲載・ここに転載にあたり筆名・百名井雄山で記載
 》