創作  ― 柴譜 (しばふ) ―

[ジャンル] = 創作童話(物語)

 

    柴譜 (しばふ)

 

                      妙致希林(ももない)

 

 日光香厳法師は東大寺別当で、開山でもあり、「金鐘行者」といわれて名高い、良弁大僧正のお弟子さまです

 その中でも特に優秀で、「秀逸」といわれて、山内の新薬師寺堂を任されておりました

 日光法師とのいわれも、つね日頃より、薬師如来を篤く礼拝されておりましたから、そのときのお姿が、まるで如来のそば近くにある、脇侍の日光菩薩のごとく侍られている様に見えて、いつのまにかそう呼ばれるようになったそうです

 普段から探究心は旺盛で、学問にも勤勉でありながらも、控えめでありましたから、その至誠の姿勢は誉れ高く謳われておりました

 しかしながら日光法師は頭が良すぎたせいか、逆に仏の教えの道が、どうしても解からないところでもありました

 奈良にある方々の名刹をめぐり、そこにたんと積まれている、唐や天竺からもたらされた数々の尊い書物や仏典を訪ね歩いて、数々の経典などに目を通したのですが、腑に落ち、納得のいく答えを見つけることができませんでした

 そこで当代では名高い、鑑真和上のもとにも通われて、教えを請いましたが、やはり肝心の仏の道の教えを、悟れないままでありました

 そのうちに鑑真和上も亡くなり、師の良弁も、自らがふるさとに開山された、相州にある阿夫利山として信仰される大山へと旅立ったため、鑑真和上のお弟子さまで、大唐から鑑真和上に従って、この日本においでになった、法進爲山和尚のもとに参じたのです

 

 日光はさっそく、法進に対面しますや、長年の苦悩を打ち明けるとともに、率直に仏の道とはなにかを尋ねられました

 法進は、

「良弁大僧正のもとで、日光は一を問われて十を答えられた。それだけ、頭がよく、見識があり、弁説もたつというものだ」

と、断ったうえで、

「だが、生死のことはゆるがせにはできない。日光。あなたがこの世に生まれない前の、本来の姿はどうであったのか」

と、質問をしたのです

 この質問に、日光は、どうしても答えることができませんでした

 寺や神社や大学にある、ふだんから見ている文献を、片っ端からめくったところで、答えは見つかりません

「絵に描いた餅と同じく、結局、手に取ることすらかなわず、飢えも満たせず、手に入れられないものなのか」

と、日光は、自らのしてきたことへの無力さに、愕然とし、打ちのめされてしまいました。

 ついに行き詰まりを感じた日光は、ふたたび法進のもとを訪れて、

「どうか、その秘密を解き明かしてください」

と、懇願しました

 ですが法進は、

「今、私が解き明かせば、日光はいつか私のことを、悪しざまにけなし恨むことになる。なぜなら私が言ったとしても、私の答えはあくまで私の答えであり、決して日光の答えにはならないからだ」

と言って、日光の問いかけを解き明かそうとはしません

 さすがの日光も、答えに窮し、そこで、うつむいて考えこんでしまいました

 ですがその様子を法進はみとめますと、

「道を見ようとするなら、その場ですぐに見るのだ。考えこんだら、途端に間違えるぞ」

と、日光をきつく叱ったのです

 日光は、寺にこもり書籍の中に暮らす机上の学問の世界に限界を感じました

 それは、法進自身が鑑真に従って、長年の苦難を乗り越えて、この日本の地へと渡ってきておられたこと

 そこに、なにものにもおよばぬ威厳と、誰をも納得させるであろう説得力が見て取れたからでした

 そして日光は、ただ寺にこもり学問にふける日々を改めることにしました

 この問いかけに答えられないのは、自らの不徳のいたすところであり、不甲斐ない

 なおもこれまでと同じ生活を送り続けるままでは、決して真理に行き当たらないのは明白であろうと思えてならなかったのです

「このままでは、真理を求めていないのと同じことではないのか」

 ついに日光は、このように考えるようになりました

「真理を求めない修行者に、なんの意味があろうか」

と、いうのも、このごろは、まるで僧という立場を利用して、偉そうにふんぞり返ったり、あちこちで物乞いをして歩く、戒も受けず認められていないニセ坊主も横行していて、彼らと同等、いやそれらにすら劣るような存在に、日光自身が思えてきたのです

 そこで日光は一念発起し遊行修行の旅に出ることにしたのです

 まずはその上代のおり、東国を平定したヤマトタケルノミコトの踏跡を追いつつ、相武国にある、師の良弁が開基した阿夫利山大山寺を目指すべく、奈良の都を発って、長い修行へと旅立ちました

 

 滝に打たれ山に伏し、海や天や星に祈る修行と、長い雲遊の旅を経たある日、東山道を進んだ日光は、ヤマトタケルノミコトが歩んだという武州秩父に入るべく、信州の筑摩の川をさかのぼりました

 そして、その最初の一滴のしずくが落ちるところを越えて、武州をつらぬいて流れていく荒川の、その上流の深い谷へと足を踏み入れたのです

 山霧に濡れた崖に取り付き、蔦や木の根を足掛かりに歩いていくうちに、やがて音だけを聞いていた水の流れが、白く糸を引いて目に映りはじめました

 そうして近づくことしばし

 山峡にかかる道なき道は、やがてわずかに開けて、日光をあきらかな谷筋へと導いて行きました

 木々や岩に見え隠れする谷筋を目当てに、なおも進み続けますと、ふと日光は、遠くの河原になにか動く影を見つけたのです

 近づいてはっきりわかったのは、それは親子連れと思われるオオカミでありました

 夜行性のオオカミは夜に活動しますので、こんな昼間に見かけるということは、珍しいものです

 群れからおいて行かれたのでしょうか。たぶん母オオカミと思われるものと子のオオカミと思われるものが二つ

 母を先頭にして、か細い河原を伝って、下って歩いていくのです

 しぜんと日光もその後を追う形となって、親子のオオカミを目にしつつ、谷筋を進むこととなりました

 そうして進むにつれて、オオカミ親子と日光との距離は近くなっていきました

 これほどの距離になれば、オオカミとて日光の気配を感じ取っているはずです

 ですが、いっこうに後ろを振り返る気配がありません

 群れから離れたのが気がかりなのか、よほど急いでいる様子と見えて、母オオカミは川を必死に下って行くようです

 それを健気にも、二匹の子のオオカミは、たどたどしい歩みながら、置いて行かれないようにとついていきます

 ときおり、思い出したように母オオカミは、子のオオカミのほうを振り向いてきますが、付かず離れずに、なんとか一生懸命ついてくるのを認めますと、休みを取ろうともせずに、また先に進んでいきました

 オオカミのその後を追うようにして、日光も一つ上くらいの、飛び降りればすぐにでも岩ばかりの川原に降りられるような、段の上を進んでいきました

 やがてオオカミの親子の前に、 さほどの広さの、徒渉をしなくては前に進めぬ場が現れました

 その下には険しい水の流れが、ごうごうと音を立てて、走り下っていきます

 たぶんオオカミならば一飛びにして、対岸に渡れるかもしれないでしょう

 ですが日光にとっては、飛びわたることなどついぞむりに見えました

 そこでべつに、背にした斜面を超えようとしたのです

 ですが、どうにもオオカミの親子が気になってなりません

 そこで川原に目を転じますと、ごうごう流れる谷川の沢水を、気に取られる様子もなく、やはり、母オオカミは迷うことなく、たんと足場の岩場を蹴やると、すぐに対岸にへと取りついて渡ってしまいました

 子のオオカミたちも、母オオカミの後に続いて岩場を蹴りました

 しかし子供たちはうまくいかなかったのです

 しくじったのか、やはり母オオカミよりも力がなかったためか、対岸の岩場に辿り着くことができませんでした

 手前の岩に引っかかって飛びついたかと思いきや、しっかりと対岸をつかむことができず、水に濡れたところであったのでしょうか、つるんとそのまま真っ逆さまに、急流に落ちてしまいました

 母オオカミはなんとか飛び渡ることができたものの、子のオオカミたちは、母をまねて向こう側を目指して飛んだものの、力およばずに、次々に谷川へと落ちてしまったのです

 

 子オオカミたちはか細くも、なにやらに悲鳴のような、物悲しげな声を上げて、母オオカミに助けを求めました

 その声に振り返った母オオカミが目にしたものは、急流に流されていく、我が子らの姿であったのです

 母オオカミは驚いたように、流されていく子の後を追いかけました

 やがて岩場の道が尽きてしまい、これ以上進むことができなくなりました

 すると、母オオカミもまた、子供たちを救うべく、自らも身を躍らせて、ごうごうと音を立てる急流の中に飛び込んだのです

 急流は親子を近づけまいと阻む奔流となり、オオカミたちをもみくちゃにしてしまいました

 そのありさまを目の当たりにした日光もまた、その後を追いました

 まだ幼い子オオカミは、母オオカミと離れ離れになったら、生きて行けません

 母オオカミはなんとか子供を捕まえて、泳いで渡ろうとする様子を見せました

 しかし、奥秩父の荒川は、信州筑摩のそれとはうってかわって、急峻な山峡を駆け抜けていきます

 七千尺を超える高山より、滴り落ちる水は冷たく、しかもここいらは、春先の雪解けの時期とも重なって、あたりに雪やつららも残り、夜にはいまだ極寒になる場所でありました

 ですから今の季節というのは、人間でさえ、ほんの少しの間でも、この沢の冷たい水の中に忍び込むことは、耐えられるものではありません

 長い時間この沢水に、身体がさらされ続けようものなら、たちまち体温を奪われ、ときには心の臓も止まって、命さえ奪われかねません

 しかもそれが急な谷を駆け下るのです

 足をすくわれ、流されようものなら、岩壁や巨岩に叩きつけられ、あるいは高い滝から落とされて、粉々になることでしょう

 そしてそれは人にとってだけではなく、オオカミにとっても同様であったのです

 母オオカミは、雪解けをたたえて増水した谷川を甘く見ていたのでしょうか、子のオオカミたちにも大丈夫と思っていたのでしょうか

 いずれにせよ渡ろうとした谷川の幅が、見かけより、子のオオカミが飛び越えるには、あまりに大きかったのです

 しかも谷川に流れる沢水は、母オオカミにとっても冷たいものでした

 子のオオカミも、なんとか母オオカミに近づこうとしましたが、なかなかうまくいきません

 しばらくすると子オオカミは、母オオカミに追いすがろうとすることが、できなくなってしまいました

 それでも、なかば溺れつつも、子のオオカミは、なんとか力を振り絞って泳いでおりました

 母オオカミはそれ以上に、子との距離をこれ以上開かせるまいと必死でありました

 しかし、お互いの距離は離れるばかりなのです

 やがて支流をあわせて谷川の水量が増すと、お互いの力ではかなわぬくらいになって、命に関わるほどになったのです

 なによりも水の勢いがこれほどになってしまうと、子のオオカミにとっても、また母オオカミにとっても、この大きな奔流を乗り切って渡ることなど、とうてい無理でした

 母オオカミは子オオカミを救うことができなくなりました

 そればかりか、自らの体力も限界に来ていたのです

 だからたとえ、子オオカミにたどり着くことができたとしても、子供を連れたまま、自力で向こう岸に着くこともできないくらいに、疲れ果ててしまったのです

 沢水はなおも冷たく、谷川の流れはとても速く、子オオカミたちを、いよいよ、もみくちゃにしながら押し流していきます

 とうとう母オオカミは、自分だけで泳いでいくのが、精一杯となってしまいました。

 母オオカミは力を振り絞ったのちに、川岸に達して、なんとか陸に上ることができたのです

 ですが母親と離れると、子オオカミたちは絶望したのか、ここぞとばかりの力を振り絞って泣き叫びました

 しかし、岸に上がった母親との距離は広がるばかりで、谷川の強い流れと極寒の水にあらがうことができませんでした

 顔を水上に出すだけで精一杯、もうこれ以上は耐えられません

 二匹の子オオカミはともに抱き合うようなかたちとなり、一緒に流されてゆきます

 奔流にあらがって戦うものの、時間が経つにつれて、子オオカミの動きは鈍くなっていきました

 そのときです。母オオカミは力のかぎりを振り絞るように、

「うぉぉぉーーん」

と、山々に響かんばかりの遠吠えを上げたのです

 

 ですが、その遠吠えは日光に響きました

 日光は、だっと川に走り込みますと、ざんぶとばかり激流の中にその身を躍らせたのです

 そして激流をものともせずに、二匹の子のオオカミのもとへと、濁流に分け入っていったのでありました

 はじめ、子のオオカミたちは、突然に現れた日光に驚いたようでしたが、すぐにその意図に気が付いたのか、反応して、今度は日光のもとへと向かって、必死になって泳ぎはじめました

 日光は、長い雲遊修行の間で鍛えられた身体で、立ちふさがる谷川の沢水に、分け入って果敢に進みますと、まず一匹の子のオオカミを捕らえました

 でも、もうこの子オオカミには日光にすがる力は残って居らず、日光が手や足を掴んでも、子のオオカミは、日光の手を捕らえようとはしなかったのです

 しかし、日光は猛進します、

 東大寺南大門の仁王さまを心に思い浮かべ、息を整えて、

「えい」

とばかりに、力に任せて、しゃにむに子のオオカミを、奔流からずばっと引き抜き取りますと、

「おうっ」

とばかりに、一気呵成に子オオカミをその背に負ったのです

 そして、もう一匹の子オオカミの方を見ました

 すると、なんと滝の落ち口にかかっているではありませんか

 すぐに日光は転じて、もう一匹の子オオカミのもとへと急ぎました

 そして、あらんかぎり手を伸ばして、その子オオカミをも掴もうとしたのです

 しかし、今ひとつのところで、日光も子オオカミも、流れに取られ真っ逆さまに滝壺へと滑落してしまいました

 ですが、幸いにして落差がそれほど無かったことと、流量があり、落ちていく水に長年かかって削られ、掘られていていたせいか、滝壺が深かったため、日光も子のオオカミも無事でありました

 日光はなんとか姿勢を整えますと、すぐにもう一匹の子オオカミをも捕らえて、二匹と我が身を、腰に巻いたひもで堅く結びつけて、そのまま泳ぎ渡り、滝壺の近くのゆるやかな流れに任せ、浅瀬に上がりました

 そしてそのまま、陸へと二匹を担ぎ上げたのです

 二匹の子オオカミは、岸に上げられても、ぐったりとしておりました

 水を飲んだのかと日光は思い、吐かせようとしましたが、よくよく見れば、疲れと緊張から解き放たれたせいか、子のオオカミたちは心地よい寝息を立てておりました

 日光は子のオオカミらが落ち着いたところで、母オオカミを探そうとしていましたが、しばらくして、母オオカミの方から日光の前に現れました

 その気配を感じてか、子オオカミも目を覚ましました

 二匹の子オオカミはよろめきながらも自力で立ち上がると、母オオカミのそばに寄っていきました

 母オオカミも子オオカミに近づいて、安堵しているように見えました

 そして、今度は二匹の子オオカミをしっかり見守るようにして、ゆっくりと山の中へと消えていったのです

 

 日光はそれをよくよく見送ってから、自らも日差しの暖かな場所に腰を下ろしました

 冷たい沢水の中で過ごしていたのですが、熱闘のせいか、その身体からもうもうと湯気が立ち上っていきました

 そのときです

 あの母オオカミの遠吠えが、ふたたび山中から、

「うぉぉぉーーん」

 と、高く上がって、谷を伝っていきました

 その声を聞いて、日光ははっと悟りました

 そして、恐怖でも寒さでもなく、感動のうちに身を震わせ、西の方、奈良の都の方を向くや、そこにそびえる高い峰に向かって、膝を屈してひざまずいたのです

 そして、

「法進先生。先生の恩は親にも勝ることでありましょう。あなたがあのとき解き明かしたならば、私は今、瞬時に悟りうることはできなかったでしょう」

 そう、感激にむせび泣いたのでありました

 思えば、突然現れた人間を、猟師や敵にするものとして、母オオカミは牙を剥けてきたかもしれません

 そしてそれはまた、子供のオオカミたちにもいえることなのです

 恐怖におののいて、日光に、最後の力を振り絞って、あらがったかもしれないのです

 なにより逆巻く冷たい谷川の水の奔流は、日光とて、容赦なく飲み込んだかもしれません

 また冷たさに驚いて心の臓が止まるかもしれなかったのです

 ですが日光は、なんのためらいもなく谷川の冷たい水の中へと飛び込びました

 そこにはなんの深い思案も迷いもなく、日光の意図など、まったくありだにしなかったのです

 気がつけばオオカミの子の遭難を、目の当たりにしてこれを救い、母オオカミはそのことを理解してか、日光を襲おうとはせずに、黙って山中に帰っていきました

 もし、親子が腹が空いていたのなら、別の意味で襲われていたのかもしれません

 しかし、そのようなことは日光にとってどうでもよかったのです

 山中や谷川に響いた母オオカミの遠吠えを耳にしたとたんに、日光の知らぬ日光が、いつの間にか子のオオカミを救うために身を躍らせておりました

 その発見に気がついて、日光はついに法進和尚の問いの真意を自覚し、あわせて理解したことから、ついに謎を解き明かしたことを悟ったのでありました

 日光は、感涙にむせび泣きつつ向かったその名もなき峰を、尊い仏の宝の意味である「三宝の山」と呼びました

 そして、その場をあとにし、ふたたび長い険しい山道をふもとに下っていったのです

 

 その日の日暮れまでに、日光はふもとの大滝栃本の集落にたどり着きました

 そこの寺社に立ち寄り、宿を求めるとともに、明日、ヤマトタケルノミコトの伝説でも名高い、秩父三峰山に入りたいと、地元に住む三峰山の、山守の里長に許しを請いました

 すると、さっそく快諾を受けましたので、山守の里長に案内についてもらい、秩父三峰山にこもって、しばらく修業をすることにしたのです

 山守の里長の話によれば、秩父三峰山とは、三峰神社奥の院の妙法ヶ岳と白岩山雲取山の三つの峰を称して「三峰」と呼ぶとのこと

 尾根の上にある三峰神社の社伝によるいわれは、ヤマトタケルノミコトが東征の途中、雁坂峠で道に迷った時、白いオオカミが現れ、いまの三峰神社付近まで、案内した故事から来たといいます

 このとき、ヤマトタケルノミコト雲取山白岩山、妙法ヶ岳の三山に、含まれる深い神聖な霊気を感じとって、これは神の導きに違いないと喜びました

 そして、この地にイザナギノミコト、イザナミノミコトの二神を祀ったのが、聖地としてのこの地が始まったゆえんとのことです

 よって、ヤマトタケルノミコトを案内したオオカミが、神社のお使いになったということでした

 日光は、先のオオカミとのめぐりあわせのこともあって、なにか不思議な結縁を感じ取りました

 翌日、山守の里長の案内を受け、日光は修験道場である三峰観音院に入りますと、七日間の修法の禅定に入りました

 その結願の日の夜のことです

 日光は庵室で静かに座って心を研ぎ澄ましたところ、夜更けになり、なんとなく静けさを破る騒がしい気配を感じました

 日の出と共に満願となり、お経をあげ終えて、外をうかがったところ、どこからともなく現れたのか、オオカミが境内に、まるで日光に付き従い、日光の唱える経典を聞くようにして、いっぱいになって座っていたのです

 なんでかと見渡せば、その中にかの親子オオカミがいるではありませんか

 どうやら日光はオオカミたちに、この人ならと思われたようでありました

 そして親子のオオカミは、どうやら属する一群を率いて、日光のもとへと参じて集まってきた様子でありました

 てっきり日光は、これより相州阿夫利山大山寺にいる、師の良弁のもとへと発つつもりでおりましたから、その見送りにやって来てくれたものかと思い、

「オオカミもこのように、恩義に報いるほど情け深いとは。一切衆生、山川草木悉有仏性とは、このことであったか」

と感じ入っておりました

 やがて山守の里長が迎えにきました

 ですがこの光景に、やって来ますや否や、山守の里長とはというと腰を抜かさんばかりに驚きました

 ですが、オオカミの一群はあまりにもおとなしく、日光に対して従順であったため、逆にこれは喜徳奇瑞なことと、この様子を珍重したのです

 そして日光が三峰山の神仏に別れを告げて、山守の里長に導かれて山を降りていきますと、不思議なことに、オオカミの群れも、日光に付き従っていくではありませんか

 そして日が高く上がり、郷の村の集落にたどり着いても、なおも付き従って、離れようとはしないのです

 日光は幾度も山に帰るように、オオカミたちに促しました

 しかし、オオカミたちはずっと日光の後に付き従ったままで、無駄でした

 すると山守の里長は、

秩父三峰山の神の使いはオオカミである。これは日光法師に、なみなみならぬ神との縁が生じたからではないのか」

と、語ったのです。

 そこで日光は、先日めぐり合わせたオオカミ親子との出来事を、山守の里長に語りました

 おかげで、日光が学識のみでは悟りえなかった境地に目覚めたことも

 するとますます、その善行が三峰山の神に認められた証しであり、だからこそ日光を慕っているのだと言うではありませんか

 しかし、これからも長旅は続きます

 日光としても、これだけのオオカミを付き従えていくことはできません

 ですがこのとき、日光の脳裏に閃くものがありました

 日光は、山守の里長から、さきに、ここいらの郷人は他の土地からの盗人や、畑にイノシシやシカなどが現れて、被害がかなりに上ると聞いておりました

 ですから、

「山守の里長の言うとおりに、神のお導きであるとするならば、このオオカミ一匹一匹もまた神の使いである。なにかの縁だから、よって、これも神のお導きの一つとして、このオオカミたちを各家の警備番として、三峰神社の御札をつけて、ふもとや信仰の篤い村々に貸し出してみてはいかがかな」

と、日光も山守の里長に語ったのです

「はい、はい」

 すぐに山守の里長が各郷の家々に、日光の喜徳な体験とともに語り働きかけました

 すると、それだけの喜徳奇瑞ないわれがあり、神のお使いであるならばと、郷中の皆々がこぞってやってきて、すべての集まったオオカミたちが引き取られていったのです

 

 さてその後、日光は秩父を越えて、東山道から武蔵府中に下る官道をまっすぐに南下し、聖武天皇の勅令により東国鎮守の祈願寺として、行基によって開かれた高尾の名刹を訪ねました

 道中、一度だけ日光は、

「三峰の神の御名を称して、人として、僧として、差し出がましくも、厚かましいことをしたのではなかろうか」

 とも考えましたが、

「これがあるときに、かれがある。これが生ずるから、かれが生ずる。これがないときに、かれがない。これが滅するから、かれが滅する。迷っているときは師や神仏の導きを期待していた。だが、悟ったからには自分で世を見据えていくものだろう。偽りあらば、我に因果が降りかかろうが、あれは偽りなき、誠の心で述べたことだ」

 と、思い直しますと、不思議と心は以前のように揺るぐことはなく、定まっていきました

 いよいよ相州阿夫利山、大山寺へと至りますと、師の良弁は笑みを浮かべて、成長した弟子を迎えてくれました

 そして良弁から、

「いい顔をしている。これまで苦労をして来ただろうが、道の習得に努めるには、どのようにすればよいか解ったかな」

 と、尋ねられますと、

「腹が減ったら飯を食い、疲れたら眠ることです」

と、日光は答えました

「おやおや、皆々、そうしているのではないかな」

と、良弁が尋ねると、

「そうではありません。たいていはそうではなく、食べるときにはいろいろと、欲望をめぐらしていましたし、寝るときは寝るときで、様々な思案を巡らしておりました。それがようやく理解できました」

と、日光は答えたのです

 良弁は手をたたき、

「よく勉強したな。立派な供を従える資格はまさにある」

と、日光を褒めたたえました

 じつはこのときまで、日光のそばには、あの親子オオカミが、付き従っていたのでありました

 後日、秩父の三峰の山守の里長より届いた手紙によると、日光の勧めにより貸し出したオオカミたちは、霊験はあらたかで、獣害、火盗よけになったとのことで、たいへんな評判になったとしたためられておりました

 日光は良弁に言われ、東大寺にいたとき同様に、薬師如来に仕えるよう告げられ、大山の東にある、行基の開いた薬師如来を祀る堂宇、霊山寺を紹介され、そこに住まうことになりました

 一説として、このあたりのことを「日向」と言うのは、

「この日光香厳法師が向かわれたところである。と、いう故事に由来する」

と、伝承されてもいて、そのように聞くこともあります

 そうして改めて日光は、薬師如来にお仕えしていきました

 日光に従っていた親子のオオカミは、その後は霊山寺門前の集落の警備番として、家々に迎えられました

 日光に供したオオカミは、獣害、火盗よけにたいへん効果があったとみえて、相州阿夫利山大山を一望するこのあたりに伝わっていき、このオオカミの子孫を分けてもらい、警備番として持つ風習が広まっていきました

 また近くの里には、この奇瑞を福徳として、オオカミへの信仰が生まれたともいいます

 

 そしてオオカミを祖先に持つ番犬が、このようにして、郷人の間から、広く国中へと広まっていったということです

 現在に至って、私たちの身近に愛嬌をふりまきしっぽを振る柴犬がおります

 日本人にはなじみ深く、日本にいる純粋な日本種と目される柴犬でありますが、実は、柴犬が持っている遺伝子がいちばんオオカミに近いといわれます

 これは私たちの日本人の祖先が、太古より、たぶんこうして、オオカミと良好な関係を築いてきた結果であるというのが、通説となっています

 だから、このようにして、人間との信頼を築いたオオカミの子孫が、今日の柴犬への系譜につながることに、思いをはせることができるのです






《2022年04月18日 第34回日本動物児童文学賞 応募作品

 2024年03月11日 Hatena.Blog 掲出用として校正改訂》




創作  ― Entends- Tu les chiens aboyer? ―

[ジャンル] = 創作小話(物語)



    Entends- Tu les chiens aboyer?

                      妙致希林(ももない) 

 

 山犬は狼の子を襲った

 これをほふり喰った

 むさぼり尽くした甘美に酔いしれ

 高らかに尊く吠える

 大気はあわせて泡立つ

 アラハバギの神は黙って見ている

 

 山犬は一つ

 己が命に代えても得難い至福を喜ぶ

 アラハバキの神は萌える

 すべてはアラハバキの神の息の中にある

 山犬はアラハバキの神の息を身に受ける

 突き上げられるにまかせ、事を成す

 

 狼は騒ぐ

 だが山犬が目に捉えらぬ

 牙をとうに失った狼は

 ただ群れるだけに

 アラハバキの神をも見失ったことに、当たれない

 狼はただ目を光らせて身構える

 

 狼は狂わんばかりに身もだえる

 夜天を背にしてその威をつくろい

 闇をたたえる森霊に迫る

 見透かされているのに、気付かぬか気付いてか

 目の光にてあたりを張り詰め、圧しつぶさんとす

 だがアラハバキの神の力に遠く及ばない

 

 山犬は触れられぬ

 小心の山犬などと、狼のハナにもかからない

 狼は熊の仕業と追いかける

 だが熊の影は映ることはない、けっして

 他の仲間を疑るものもいて

 一つとして山野を駆くるもままならぬ

 

 狼が山犬の仕業と知るのは

 日が高く昇り、頼みの夜を失い

 己らの姿を認めることができたから

 照にあつく焦がされ、青深くむせ返り立つ

 草息れが倦んでから

 夜の月のもとで、見る事はかなわない

 

 狼は群れを成す

 狼は山犬を囲む

 口々に唸りを立てるも、とどくことはない

 足踏みもままならず、騒ぐだけに

 山犬は押し黙ったまま見る

 アラハバキの神は皮肉な微笑を口元にたたえる





《2017年01月31日 第二期丸山健二塾H29/1月分提出課題 テーマ 「ご指導たたき台」として提出

 2024年03月11日 Hatena.Blog 掲出用として校正改訂》

 

 

創作  ― 立山情話 ―

[ジャンル] = 山岳小話(物語)


    立山情話
                      妙致希林(ももない)


 越中、富山の誇る立山
 その真下の稜線沿いに、二軒の山小屋があった。
 舎人小屋と才二郎小屋という。
 名前のいわれは知らないが、シーズンにはそこそこ繁盛していた。
 隣同士ではあったが、片方の小屋まで行くのに、大人の足でゆうに二、三時間は要した。

 ある年の冬に、舎人小屋が荒らされるという事件が起きた。
 とはいっても、ドロボウに荒らされたというわけではなく、厳冬期の登山者に、備蓄の食糧は持っていかれるは、小屋の床板をはがされ、あまっさえ小屋の中でそれで焚き火をされるはと、それはそれは心ない仕打ちを受けたものであった。
 当然小屋の主人は立腹した。
「こんな輩のために、一生懸命思いやりをかけていたのではない!」
 とばかり、次の年の冬は小屋を閉めてしまうとさえ言い出したのだが、ほかの小屋の主たちや常連の登山者らのとりなしで、ようやくに思いとどまったという。

 さすがに富山というか、こんな人里から離れた、山懐に抱かれた小屋にも薬売りはやってきていた。
 いつの頃からか定かではないが、夏のシーズンが訪れる前にやってきては、留め置きの薬を確かめて、使った分量を補充していった。
 舎人小屋が荒らされた年のこと、才二郎小屋を訪れた薬売りはこのような話をした。
「今年は風邪の熱冷ましだけ、舎人小屋でうけつけてくれなかったのですよ」と。
 舎人小屋の主人は
「風邪の薬が減ったといっても、自分が与り知らぬこと」
 と言って、がんとして受け付けなかったという。
 ほかの薬の補充にはなにも言わなかった。
 去る冬に小屋が荒らされたときに、持ち去られたものとのことで、そのためのようであった。
「夏にだって風邪をひく方が居られるかもしれません。用心が寛容です」
 と、薬売りは熱心に勧めたのだが、どれほど強く勧めようとも、決して首を縦に振らなかった。
 ついに薬売りは、根負けせざるを得なかった。


 しかしこういうときにこそ弱り目に祟り目というか、悪いことが重なるもので、この年の夏のシーズンを終えてすぐに、薬売りは舎人小屋で、登山者から急病人が出たという話を伝え聞いた。
 しかも風邪による発熱であるという。
 さぞかし舎人小屋の主人は、薬を切らして困ったのではと薬売りは思ったが、それほどの騒ぎにならなかったことを考えて、登山者が自前の薬を持ち合わせていたのではとも思い直した。

 翌年の夏のシーズン前は、才二郎小屋から薬売りが回った。
 まだ所々に雪の残る登山道を踏みしめて小屋にたどり着いてから、一服した後に留め置きの薬箱をのぞいた。
 絆創膏、きず薬、虫さされ、腹痛止めといつも減っている薬を補充しているうちに、珍しく風邪薬がかなり減っていることに気がついた。
「風邪薬がずいぶんと減っていますね。昨年はこんなに流行ったのですか?」
「ああ、それはねぇ……」
 舎人小屋の主人がやってきては、もっていったものだと主人は語った。
 登山者に具合が悪いものが出るたびに、何回となく山道を踏みしめ、昼となく夜となく、時間のかかるのも構わずにやってきたのだという。
 そのたびごとに薬を渡していたそうだ。

「こちらがいらないって言うのに、薬の代金もそのたびそのたび置いていくんだよ。それなら意地張らないで、下に頼んで薬を補充すればいいのじゃあって思うのだけれど……」
 しかしそれを言葉にするとがんとして拒絶したという。
 頑固もここまでくるとねぇと、才二郎小屋の主人は笑みをこぼしながらこう語った。

「ただ、今年は……」
 冬の利用者の態度が、いつになく折り目正しかったよと、主人はこう付け加えた。
 礼儀正しかったというか、使ったあとがきちんとしていて、春に小屋を開けるときにもなんとなく空気がすがすがしかったそうである。

 才二郎小屋を後にした薬売りは続いて舎人小屋を訪れた。
 そして減った薬を補充した後で、半分ほど、風邪薬を置いていったという。



《1999年4月1日発行 山の文芸誌『ベルク』No.80号に寄稿掲載・より転載
 2022年12月27日 難読部を再度見直し、読みやすいよう校正改訂》



ベルクハイル
■正月には初詣をかねて大山から
日向薬師へと出かけているのです
が、今年は都合により大山頂上を
端折りました。しかしなんとなく
しっくりといきません。また近々、
登りに行こうと思ってます。(百名井)

創作  ― 杓子 ―

〔ジャンル〕=山岳、SF・ファンタジー

   杓 子  (※未校正)
             ももない康詩

 山好きにとって、山の近くに住んでいればそれだけで幸せかというと、あながちそうとはいえないようです。総じて一度もそこに、足を運ばないということはないでしょうが、普段から足しげく通うわけでもないでしょう。それは各々が魅力を感じる山々に引かれ、主としてこちらを訪れるからなのでしょう。
 私の住む東京近郊にも、手頃な山は多くあるのですが、やはり山に登っているという手応えを求めたくて、ちょいとその先へと、足を延ばすことがしばしでありました。このあたりの多くの山の先達に「近くて手頃な良い山」ということで伺ったときにも、出てくるその名前の殆んどが、谷川連峰であったり、八ヶ岳であったりするのです。
 そして、私にとってのそれは、北アルプスの最北端に位置する、白馬岳がそれに該当しました。
 何で日本海に迫る白馬岳が、谷川連峰八ヶ岳より手頃なのか。確かに近いとはいえませんが、山小屋や登山道がしっかり付いていて、アルペンハイクの入門コースと言われるくらいに安心して挑めること。そして、麓までの交通手段、特に駐車場や車道が整備されていることから、山登りの計画が作れなかったときでも、ふらりと気ままに出向くことができるところであるからなのです。

 その年の夏も、いつもの山仲間と山登りに行く約束をして置きながら、各自の都合の折り合いが直前になってもつかず、窮余のこととして、――いや、実はこうなることは毎度のことなのですが、猿倉から入って白馬三山を巡るコースを歩くことにしたのです。
 夜更けに自宅を発ち、車で相模湖から中央高速道路に乗って豊科まで、そこから一般道路を走って未明には猿倉に着きました。かなり時間がかかるだろうと、腹をくくってはいたのですが、車は夜の闇の中を飛ぶように駆け抜けて、猿倉に着いた頃には、まだ星が瞬いておりました。拍子抜けしたものの時間が浮いたのでひと休み。夜明けを待って登山に掛かることにしました。
 しかし山登りが趣味だからといって、必ずしもすいすいと登れるとは限りません。やはり普段の行いがものをいうようです。
 このときの面面は、悟朗と埴さんの二人でした。私も含めた三人共に、普段は机に向かっていることが殆んどで、ただ、その中でも悟朗だけは、これでは体が訛ってしまうと言って、地元のエアロビクスに通っていました。あとの二人といえば、なんら日頃ろくに体を動かすようなことをしいなかったのです。
 歩き始めたとたんに両者の違いは明白でした。方やすたすたと小気味良く距離を稼いで行ったかと思えば、後からはずりずりと重い足取りで歩いていく二人組といった具合で、最初のうちは要所要所で立ち止まって待っていてくれた悟朗も、余りの遅さにしびれを切らして、頂上小屋で落ち合うことを打ち合わせると、とっとと山道の先へと消え去って行ってしまいました。後に残された埴さんと私の二人で、普段より体を鍛えておくべきだったと、ぼやきながらも、またずりずりと足を引きずるように、コースタイムの倍の時間を掛けて、彼の消えた後を追って行きました。
 さすがに白馬岳は、北アルプスの中でも雪と高山植物が随所にちりばめられているせいか、多くの人を引きつけてきます。この日も例外ではなく、白馬の大雪渓の登り口にたどり着きますと、その雪の上を人の列が途切れることがなく、雲の彼方へと連なっておりました。ときおりガスがかかってきますと、どこまでが雪で何処までが雲かが見分けられずに、ただ人の列だけがぼうっと浮かび上がりながら、天上へ向かって歩いて行くようにも見えて、それが幻想的にすら感じられました。
 雪渓を登りきった先はお花畑に囲まれた山道でしたが、胸を突くくらいの急登もいくつかあって、あえぎあえぎ登る私達にとって周りの花々を愛でる余裕もなく、自分達の足元ばかりに視線を落として、背中を丸め足を引きずるようにしてただ標高だけを稼でいたのです。そんなわけですから、頭の上から悟朗の呼ぶ声が聞こえて、見上げてみて始めてそこが頂上小屋の真下であったといった按配でありました。
 たどり着いて時計を見ると、やはり普通の倍の時間が掛かっておりました。私も埴さんもへとへとになっていましたが、悟朗だけはケロッとして何でもなかったような顔をしていました。聞いてみると別れてから何と二時間も掛からないで登ってしまったということ。待てど暮らせど来ないからひと寝入りしてしまったということでした。あっけにとられてしまったのは言うまでもありません。確かに倍の時間を掛けた私達も尋常ではなかったのでしょうが、それ以上に通常の半分も時間を掛けずに登り着いた彼の行動力の方が常軌を逸しているように思えました。
 もちろん、どちらが普通でないのかその夜の小屋の中で、三人の間で言い合いになったことは、いうまでもありません。

 翌朝朝日が昇るのを頂上で拝んでから、私達は白馬岳を後にしました。この日の行程は白馬三山のうち、杓子岳、白馬鑓ヶ岳をまわって、鑓温泉から猿倉へと戻るかなり長い行程でした。が、今日は下るだけであったのと、歩き慣れていたコースだったので、昨日とは違って足取りも軽く稜線を進んで行きました。
 何が素晴らしいかと言って、朝日に輝く稜線ほど素晴らしいものもないでしょう。
 朝の光に山全体が黄金色に萌え、可憐な高山植物たちもまた朝露をそこここに含んで、射す日を受けてきらきらと輝いている。見るものの目を見張らせるそんな素晴らしいひとときがそこにはありました。
 もちろん、そんな光景をほおっておく手もありません。私達もおもむろにカメラを取り出すと、目の当たりにしたすべてのこの美しい一瞬を、手当たり次第にファインダーに納めていきました。特に埴さんは自慢の愛機を駆って、私と悟朗がひとところを撮り終えた後も、望遠だ、接写だのと手を代え品を代えて写真を撮り続け、あまっさえ熱中するあまり、
「写真を撮るので時間が掛かるから、先に温泉に行って待っていてくれ」
 と、言い出す始末。
「やれやれ、まだ歩き始めたばかりなのに」と、思いつつも、もっとも埴さんにとっては写真もかなり力を入れている趣味でしたから、しょうがないなとあきれつつ、二人してゆっくりと山道を進んで行くことにしたのです。
 白馬三山の縦走路を、来た道をしばらく戻って、今度は稜線沿いに進んで按部に下って登り返せば、もうその山は白馬三山のひとつ、杓子岳です。しかし実際の登山道はその黒部側の肩を巻いて通っているために、肝心の頂上を通ってはいません。ただその巻き道からいくつかの踏み跡が、その頂に向かって着いているだけなのです。しかしどれもが急なので、たいがいは巻き道を通っておりました。
 けれどもこの日は時間に余裕があったことと、埴さんを後にしてきましたから、ここでは大廻りをしてみようということになりました。もちろん、抜けるように青く晴れ上がった空に引かれたことも、その理由にほかなりませんが。
 平らに続く横道を横目に見て、ジグザグな登りに取り付きました。胸突八丁とはいかないまでもかなりの斜面です。私は喘ぎ気味に、今までよりペースをダウンしたのですが、やはり悟朗は昨日と同様、そんな私を軽く追い抜くと、息付く間もなく距離を開けて、あれよあれよと思ううちにとっとと先へと行ってしまいました。
 またしても取り残される形となってしまいましたが、昨日とは違って、焦りを覚えるようなことはありませんでした。
 何よりもすでに稜線に出ているということで、気持ちに余裕がありましたから、あまり気付かなかった道端や岩陰に、張り付くように咲いている可憐な高山植物を楽しんだり、どこまでも見晴らせるすきとおるような景色を眺めたりしながら、気にせずに一歩一歩自分のペースで、斜面を登って行ったのです。
 杓子岳も白馬岳と同じように白い山です。山は白い岩礫と、その岩が風化して出来た砂礫のザレた斜面によって出来ています。場所によって遠くから眺めたときに、日に焼けて赤茶けて少しでも薄汚れたり、岩影やハイマツに覆われたところだけが、アクセントとして目に写るのですが、こうして身近にその斜面に立ってみると、山全体が白い山なので、どこが影になっていたところなのかがわかりません。ただよく見るとその白い世界の中でも、砂礫の斜面の所々に淡い薄桃色の霞がかかったように浮かんでいるところがありました。だんだんゆっくりと登って近づいてみれば、それは一面のコマクサの群落でありました。その一つ一つが霞のつぶてをその花や枝葉に含ませて、それを集めたしずくの一つ一つに朝日が吸われて、まさにきらきらと、今度はそれを薄桃色の光をつぶてに変えて、あたりに放っていたのです。
 その様を見ただけでもたまらなく嬉しく思えてました。重い荷物を担いでいるせいか、ほとんど視線は下に落としたままだったのですが、そうした視界の中であってもこれらの宝石が、向こうの方から飛び込んできてくれるのです。よく見れば踏み跡の周囲に散らばるようにこの美しく輝く花々が点在しておりました。いちばん近いところにある花にそっと触れてみると、その花びらにたまったしずくが、そっと手のひらにつたわってきます。試しにその小さなしずくを口に含んでみました。味というものははっきりと感じられませんでしたが、薄く甘味を帯びているようにも思え、またそのときには身体が清められるような新鮮さも覚えましたから、何となく神仙が霞を食って生きているということを、信じてもいいように思えました。

 さて、そういうように気ままにあたりを眺めては悦に入ってきたのですが、ふと、視線を進行方向に向けるますと、悟朗が立頂上付近でち止まっております。始めは私を待ちくたびれて、様子を伺いに出てきたのだと思っていたのですが、どうも違うようです。こちらの方には背を向けたままで、ずっと前の方を見ています。もしかして、埴さんが先回りでもしていたのかとも思ったのですが、どうも何かとんでもないものでも見つけたのか、あるいは予測のつかないものにでも出くわして驚いているのか、つっ立ってたままでいつまでたっても動く素振りさえ見せません。
 ついに最後のの傾斜を一気に登りきって、彼に追いついてしまいました。
 ためしに、彼の側に寄って、
「どうしたい、オコジョでも出たのかい」と、声を掛けてみたのです。
 悟朗は始めはぽかんとしていて、私の来たことにも気が付かないようでした。まるで魔法から解かれたように、私の声にこちらを振り向くと、また向き直り前方を指さして、
「前に来たとき、あんなものあったっけ……」
 そう私に確認を求めてきたのです。
 今度はそう悟朗が尋ねてきたので、その視線の先を見やると、確かにそこには、ほとんどこの場に似つかわしくないものがありました。
 それはここから見た限りでは、黒光りする何かの石でできた、石柱のようなもの……と、いうよりむしろ、墓石のように見てとれたのです。
 何でこんなところに墓石があるのだろうか。まさか遭難した人のものではあるまいか。その時にはこんな思いが頭をよぎり、一瞬恐ろしささえ感じたのですが、すぐにその考えを否定し去りました。そうでないかもしれませんし、見ただけではわかりません。ともかく近寄ってみることにしました。
 それは頂上を覆っているハイマツの切れ目の、砂礫の地表の上に、しっかりと根を下ろすように几帳面なまでに真っ直ぐ立っていました。すべての面という面はつるつるで、その表面とおぼしき側には、
  ―― 自然の杓子 ――

   これらのものはすべて
        あなたがたのもの
    ただしもちかえったり
         ふみにじってはならない
   あらゆるものを
        あるがままに
    そっくりそのまま
         たのしみなさい

 と、いう文言が、そこには刻まれていたのです。

「なんだ、展望盤か追悼碑かなにかだと思ってた。人騒がせな」
 悟朗はこれを見るなり、そう言いました。どうやら彼も、私と同じ様なことを考えていたようです。
 私もこれで墓石ではないかという疑念が晴れ、気持ちあった緊張が解けたました。特に読み取ったこの文言については感心したのですが、次に浮かんできた疑念は、誰がいつ、何のためにこんなものをここに据え付けたのだろうかということでした。
「うまいこと言っているなぁ。けど、前に来たときにこんなものはなかったと思う……。いったい何なのだろうか」
 答にはなりませんでしたが、先ほどの悟朗の問に、遅ればせながら私はこう答ました。すると、悟朗も、
「さあ、でもこんなことが記されていることから察すると、なにかの記念碑なんじゃない」
 記されているものの真意がわからない以上、この場ではこれ以上の判断は出来そうもありませんでした。
 この記念碑とおぼしきものの隣には焦げ目をつけた板に白ペンキで、「杓子岳頂上」と記された銘板が打ち込まれていました。けれども、以前――というより、それは昨年の夏のことなのですが――ここを訪れたときには、この場所には確かこの板だけが刺さっていたはずなのです。いつの間に工事をしたのでしょう。考えられるのは昨シーズンの秋頃か、今年の梅雨明け頃ではないかと思えるのですが、もしそうだとするならば何らかの工事の痕跡が残っていてもいいはずです。それだけではありません、
 「どこまで深く基礎を打ち込んでいるのだろう。コンクリートの基台さえ見えないよ」
 悟朗がそう言いましたので、二人で試しにこの碑の根元のザレた砂礫を払いよけてみたのですが、やはりかなり深いところから立ち上がっているようで、基礎を確認することなどまったくできませんでした。いや、この周囲にはコンクリートのかけらさえ見当たらないのです。これだけのものを設置するのですから、余計なコンクリートのかけらが転がっていてもいいと思えるのですが、碑のどこにもコンクリートを使ったような形跡が見えません。この山の山頂を掘りくりかえして埋めたのでしょうか。それにしても短期間で人の力だけでは及ばないくらいに根が深く作られているようですし、それではとうていこれほど水平面から鉛直に立たせることなど不可能でしょう。なのに周囲を見回してみたのですが、どこにも工事をした跡は伺えないのです。それどころかまるで以前からそこにあるかのように、その碑は自然とその位置に納まっているのです。
 不思議なことといえば、この石碑の形も不思議でした。直方体にしてはずんぐりむっくりとしていて、ふだん街中で見かける記念碑や墓石とは、おおよそ似ても似つかない形をしていました。石材にしてもそうです。普段普通に見かけられる黒御影石よりも、ずっと透明で、ガラスのような感じがします。さわってみたときの感触も、御影石のようなひんやりとしたものではなく、もっと張りつめたような冷たさにさえ感じられました。
「これ、黒御影石じゃないよなぁ」
 私はそう言いながら、今度は親指と人指し指でその大きさを測ってみました。ちょうどその奥行きを一とするなら、幅が二、高さが三となる比率のようです。
「もしかしてこれ、黒曜石でできているのじゃあないか」
 悟朗のその言葉に、私もはたと思い当たりました。確かに触れてみたその感触は、まさしく郷土資料館などで触れてみた縄文時代以前の石器のそれでした。ガラスのような火成岩である黒曜石。かの時代にはそれがナイフややじりとして使われていたのです。
 でも、なぜ黒曜石の碑がこんなところに。もっとも信州は一大産地なので、ここにあったとしても、たいして不思議ではありませんが……。
 しかし私はまたそこで新しい疑問にぶつかってしまいました。そう、ガラスのような切れ味を持つ黒曜石は、広く石器として使われてきましたが、それはまたこの石が叩くと一方向に割れやすいという石の性質を有し、手軽に加工しやすかったためなのです。逆の意味でいうならば、ガラスのように割れやすい、もろい石材であるのです。しかしそんな石材をわざわざ碑に使うために選ぶものでしょうか。それに、
「本当に黒曜石なのかなぁ。それにしては全然碑にはなんらの傷もついていないぜ」
 そう言って、私は悟朗の問いかけに疑問を示しました。これだけ気象変動の激しい山の頂にあるのですから、当然強風に吹かれ舞い上がった石のつぶてや雪や氷の塊を相当受けているはずです。当然それらの攻撃にあって碑の表面は傷がつき、周囲にその石屑が散乱していてもいいはずです。なのに、そんな形跡など、あたりにまったく見られないではありませんか。
「ためしてみようか」
 悟朗も奇妙に思ったのでしょう。彼は自分の腰にくくりつけていた、いつもは私達がひどい薮道に迷い込んだときにお世話になっている、刈り払いに使うにしてはもったいないくらいのアーミーナイフを取り出すと、そのエッジを碑にあてがおうとしました。削ってみればわかるだろうということでしょう。が、もちろん私は止めには入りました。
「やめとけ、やめとけ。黒曜石だったらあてどころが悪いと、この碑がまっぷたつになるくらいのひびが入るぞ」
 そう言うと、悟朗もすぐに察してか、あわててナイフを引いてしまい込みました。なにせ相手はもしかするとガラスなのですから、粉々になってしまったらそれこそとんでもないことになってしまいます。その後も悟朗と、いったい誰が何のために立てたのだろうとか、この碑文はいったい何を意味しているのだろうとか、あまっさえこれは国立公園管理事務所の許可をとった建造物なのだろうかとかを話し合いましたが、どれも推測の内を出ることができないままに、何枚かの記念撮影をしただけで、その時は杓子岳の頂上を後にしました。道の途中で何回か振り返ってみたりもしたのです、それも下り坂にかかると勾配に隠れていつしか見えなくなってしまいました。頂上からくる踏み跡と本道の合流点で、ちょうどうまく登ってきた埴さんと合流し、しばらくは展望を楽しみつつ、稜線を闊歩しておりましたが、白馬鑓ヶ岳から鑓温泉に下る道のあちこちので、盛んに咲き誇る高山植物、特にチングルマなどが見事なのに出くわして、また写真に撮ったりながめたりと足止めを食ってしまいました。その間にも悟朗はまた私達を置いて先に行ってしまい。鑓温泉についたときには、彼はもうひと風呂浴び終わって、小屋の縁台でビールを片手にくつろいでおりました。

 その山行から一週間経ったある日、私は所属する山岳会の集会に出席していました。集会と言っても飲み屋の一杯会で、もちろん悟朗や埴さんも会員でしたから、近況報告かたがた、先週出かけたときの写真を持って行ったのです。たいていは会員それぞれどこの山に出かけたかをこのように写真を持ち寄って、それを示しながら報告し、そこでの感想を述べるのが普段の形式でありましたから、その日も自分達の撮ってきた写真をサカナに、私と悟朗、埴さんで報告を行ったのです。
 しかしそのほとんどは埴さんの写真とその講演会となってしまいました。もっとも山岳会のみんなが、埴さんが写真撮影も趣味にしていることを知っていましたから、なんらの異存も起きません。もちろん私や悟朗の撮った写真も皆に廻してはいたのですが、その出来の違いはまさに月とスッポンでありました。
 写真がひととおり見て廻られたところで、埴さんは感想を求められ、
「そういえば今回は、かなりバカ速く歩くヤツがいて、まいったと言うかあきれた」
 と述べれば、悟朗は悟朗で負けずに
「今回は日頃おこないが良くないヤツがいて参った」と言う始末。アルコールも手伝ってか
「普通五時間かかる道を一時間半で登なんていうのは、尋常じゃない」
「何を言うか。普段から体を鍛えておけば、そんなことなど関係ない。山登りはやはり体力がものを言うスポーツなのだから、基礎体力をきちんと確保していなければ、当然バテるに決まってる」
 という言い合いが始まり、会の議論の中心は速く登山することの意義と、普段からの体力づくりに論点は移って行ったのです。結論は人には人の楽しむペースがそれぞれにあるということと、やはり普段から体は鍛えておかなくちゃいけないというところに落ちつきました。
 会も終わりに近くなったときに、会員の一人が、
「あれっ、これはどこ」
 といって指し挙げた写真がありました。見るとそれは杓子岳の上で撮った私と悟朗のものでした。
「ああ、それは杓子岳の山頂です。いつのまにかそんな珍しいものが立っていたんで、記念に撮ったんですよ」
 そう答えてから悟朗と二人で、去年出向いたときにはなかったことや、黒曜石らしいもので出来ていること、奇妙な文言が刻まれていること、それに何より不思議なことに工事をした跡が何処にも見受けられず、ずっと昔から立っていたようにそこにあったことなどを話したのです。
「そういえば、去年俺達が登ったときには、こんなもの存在しなかったよなあ」
「いつの間に、誰が立てたんだろう」
 席のあちらこちらでこんな声が上がってきました。どうやら終わりかけた会がまた振出に戻ってしまったようです。

 その中でもいちばん興味を示してきたのは、会の先輩格に当たる谷山さんと、今度同じところを登りに行くという見目君と船木さんでした。特に山岳系の雑誌や文芸誌に記事を書いている谷山さんには、なんと今月末に出る週刊誌の参考にしたいと言い出されてしまい、
「今週末に出るアウト・ドア系の週刊誌のコラムをやってくれって頼まれたのだけど、いいネタがなくて困っていたんだ。ちょうどいい話しだと思うから、あった場所だけ教えてくれないか」
 と言いながらも、もう内の山岳会の中でも写真の腕では五本の指に入るという大先輩の下田さんを誘って、
「来週さっそく取材かたがた、白馬方面に行ってくるわ」
 と言われては、こちらも次の句が告げられず、ただ早くも予定を決めてしまう行動力に、三人とも今更ながらに舌を巻いてしまいました。
 対象的に見目君と船木さんのグループは、初めて登山をする人を引き連れての、いわゆる入門登山の途中に立ち寄りたいとのことで、ゆっくりと計画に組み入れたいということでした。こちらには山や道の状況、見所などの話しも併せて、場所を変えてまでかなり話しに花が咲いたのです。

 その月末になって、谷山さんから手紙が届きました。中を開けると幾毎かの写真と共に、
「いい原稿が書そうです。ありがとう」
 と達筆にしたためられた手紙が入っていました。
 写真は下田さんが撮ったもので、私や悟朗が撮ったスナップ写真よりも鮮明に、刻まれている一文字一文字が読み取れ、何より凄い迫力を持って迫ってきました。手紙には取材に行くまでそのような石碑があることを地元の人も知らず、あまっさえ小屋番の人も知らなかったこと、それ故にいったい誰が立てたのかもわからなかったこと、石の材質も突き止められなかったし、何よりその根元も深く、まるで地の底から迫り出したようにも感じたことなどが記されていました。
「ただやはり表面に、碑文が刻まれていることから、また正確に鉛直に立っていることからも、誰かがここに立てたものには間違いないであろう。問題は、その意図ではないかと思う」
 そう記された手紙を読みながら、またあの石碑を目の当たりにした時を思い浮かべてました。遠くから見たときには、あれほど不気味に思えたのに、近寄ってその碑文を読んだとき、あるいは触れたときに、感じられた親しみの様な感慨、あそこに記された文言の一つ一つは、いかにもお説教臭いものであったのに、いちいち納得させられてしまった‥‥‥。しかしいったいこれは何を意図しようとしているのでしょうか。

 電話のベルがなりました。取るとそれは悟朗からのものでした。
「おい、大変だ。聞いて驚くな」
「あわてて。いったいどうしたのさ……」
「例の石碑が、杓子岳の石碑が消えたそうだ!」
 何を寝ぼけたことを、と思ったのですが、悟朗の声は真剣でした。話しによれば情報はまず見目君と船木さんから伝わってきたそうです。二人が総勢十二人くらいのパーティを率いて白馬岳から唐松岳へと向かう途中、杓子岳に寄って見たときには、確かにそこには黒い石碑があり、くだんの碑文が刻まれているのを確認したそうです。そこには噂を聞きつけたのか結構登山者がいて、めいめい石碑に触れたり、記念撮影をしたりしていたとのこと。しばらくして杓子を発ち、白馬鑓ヶ岳にかかったところで、メンバーの何人かが高山病のようになったため、とりあえず唐松岳に向かうことを断念、白馬岳に戻ることにしたそうです。
「戻ると決まったら不思議と元気になって、杓子岳の下まで来たときに、また石碑を拝んでいこうということになったんだそうだ。それでもと来た道を戻って頂上に着いてみたら……」
「……跡形もなくなっていたというわけなんだな」
 もちろん驚いた見目君と船木さんのメンバーは全員であの頂上を探しまくったそうです。切り立った谷側の絶壁も覗き込んでみましたが、やはり見当たらなかったそうです。何よりそれが立っていた場所に、そんなものがあった形跡がなく、ただ頂上の標識が立っていただけだったとのこと。
「……とにかく驚いて小屋の人や他の登山者にあたったら、みんなびっくりしてあたりを探したそうなんだけれど、やはり何にも出てこなかったそうだ。その一報が俺と谷山さんにきて、谷山さんが取るものも取りあえずすっ飛んでいって、その状況を確認して俺のところに連絡をくれたんだ。みんな狐にでもつままれたような気分だそうだよ」
 と、言われたところでにわかに信じられるものではありませんでした。ふと手元にあった下田さんの写真を見たところで、それはちゃんとそこに写っているのです。
 けれども悟朗との電話を切った後で見目君と船木さん、あまっさえとうの谷山さんから高ぶった声で現地から電話がかかってくるにおよんで、ついに疑念の雲をかき消さなくてはならないと思うようになったのです。悟朗はともかく、後輩にあたる見目君と船木さんが私をかつごうとしているとは考えられず、また先輩の谷山さんにしてもそういう冗談は嫌い人なのです。何より悟朗にしても、こんな下手な人のかつぎ方などしません。それに、あの石碑こそ、そこにあったこと自体が不思議なものだったではありませんか。
 私は再び電話を取ると、悟朗と埴さん、それとこの間は一緒ではなかったけれど、昨年は共に杓子岳に登った国分さんに連絡を取りました。
 もちろんこの秋口にでも再び白馬三山、杓子岳を訪れ、確かめるためにです。

 同じ山の同じコースを、一シーズンに二回訪れることなんて今まではありませんでした。しかし季節を変えてならば、それは結構いいものなのかも知れません。山道を登りながらそう感じられました。山の上の方では、里より早い紅葉が訪れ、夏とは違った風情を醸し出してくれていたからです。もっとも、よくは言われていたことではありますが、やはり身を持って体験してみなくては、その良さというものはわからないようです。
 しかし秋の厳しさは標高を上げていくにつれて、伝わってくる冷たさからひしひしと感じとれてきました。夏の山嶺の気は、万物を生かそうとして爽やかさを伝えてくれていたのに、もう秋に入ったとたんに、すべてを眠らそうとする冬の匂いをたたえているのです。かじかみながら小屋にたどりつくと、この間夏が終わったばかりだというのに、もう小屋にはストーブが入っておりました。
 翌朝さっそくに杓子岳へと向かいました。始め心に中にはかつがれているという思いが半分、そして本当にどうしてしまったのだろうかという驚きの思いが半分であったのですが、現地に到着してみると、かなりの騒ぎになっていて、これは人一人かつぐにしては大げさすぎるというようにさえ感じるようになりました。それに元より奇妙なものだっただけに、突然消えていたとしても不思議にはないなと、思うようにもなっていました。
 だからやっぱりそこに、石碑が立っていたとしても、何等の感慨を思い浮かべることもなかったでしょう。
 やはり石碑は、ありませんでした……。
 ――そこには一昨年来たときと同じように、石碑のあったあたりに、焦げ目をつけた板に白ペンキで、「杓子岳頂上」と記された銘板が打ち込まれているだけでした。かけ寄ってみてあたりをくまなく見たり、ほじくったりしたのですが、何も出てはきませんでしたし、なにより、
「何にも変わったところなんて、ないように見えるけど」
 と、言う国分さんの言葉に、きっぱりと調べることをやめる決心が着きました。
 では、私達は幻を見ていたのでしょうか。いや、そうではないことに同じものを多くの人が見ているのです、なにより手元に写真があります。
 では、ここにあったものはどうして消えたのでしょうか。いや、もしかするとこの問いかけは間違いかもしれません。なぜなら、すでにどこから来て、何のためにここにあったのかがわからないのですから、結局はその答を求めることの方が、無駄なことなのかもしれません。
 ……では、あの石碑は何であったのでしょう。
 ここでふと気が付いたことは、至極簡単なことでした。あの石碑はある意図を持っていたから、ここにあったのです。では、その意図とはいったい何であるのでしょうか。そのことについての私の推測したことはこんなことでした。
 ――その意図とは、石碑が示していたものに他なりません。では石碑が示したものというと。それはあの碑文の文言「自然の杓子」に他ならないのでしょう。しかし何で今ごろになって「自然の杓子」なるものが我々に示されなくてはならなかったのでしょうか。

 しかしこの問いかけは、別の意味では余りにもわかりきったことではないでしょうか。現代に生きる人間のどれほどが、この問いかけに対して後ろめたさを感ぜずにおれるのでしょう。あるいは、そう言える資格を持っていると言えるのでしょう。 ほとんどの人が、今まで自然に対してきた態度を考えて、臑に傷を持っているかのように、こそこそと影に隠れてしまうことでしょう。開発しかり、環境破壊しかり、現代人が自然に対して、この言葉に耳を傾けなくてはならないような仕打ちをしてきたことは、余りにも明白だからです。
 それこそ、自分の生存が脅かされるにも構わずにしてきたではありませんか。
 原始の昔から、人は自然の恵みを享受して生きてきました。それは現代においても、なんら変わるところはありません。しかし人は今までに、それが自分達にとって都合のよいものであるのなら、それこそ、徹底的に際限がないくらいに、そのことを実践してきました。だから自然の恵みをより多く取ることができれば、それだけ生きるうえで楽になると知ったときにも、それをそのまま行うことになんら抵抗を感じなかったのです。
 現代のそれは原始の昔とは比較にならないくらいに、より多くのものを自然から奪っていく形になったのだと思います。結局自然の恵みにも限りがありますから、いちど奪われたものは、そう簡単には戻らず、むしろ失われてしまったものも数限りなくありました。この廻りに咲いたてた高山植物でさえ、取り付くされてしまえばそれまでです。ついには奪いつくしてしまったことで、自分たちが生きる上で必要な環境さえ失う危機に陥ったのですが、そうは言ったところでいちど味わった快適さを失いたくはありませんでしたから、それによって悲劇に陥ることがわかりつつも、その手を止めようとはしなかったのです。
 ――自分で自分を律することができない人々――この意味でまだ人は、まだ未熟でした。未熟者にはときとして、その先達がその進むべき道を教える必要があります。
 人はその生き方、考え方において、原始時代とさほど変わっていないのでしょう。では、明らかに違うことは……?それは、人と人とがたがいに意志を伝え合うことが出来るということに他ならないのではありませんか。ただ石を道具としてふるうだけではなく、言葉を用いてよしみを通じようとし、文字を用いて意見を示す。そういう心の交流が、現代の人はとることができるのです。
 ならば、ある基準を示すことで、限度を知らない人々を戒め、調和を促したとしてもおかしくはないでしょう。その意味ではあの石碑は人が立てたのではなくて、人とは違うものが立てたのです。
 それは宇宙人なのでしょうか、それとも霊魂が立てたものなのでしょうか……?
 あるいは、そうかもしれません。けれどもっと、確実にその対象を指し示すとするならば、それはこの身の回りにある『自然』そのものが、私達に向けてメッセージを放つために立てたものなのかもしれないと考えることです。
 ばかな考え方かもしれませんが、どう考えたところであの文言を我々に指し示せる存在というのは、この『自然』以外に思いつくことが出来なかったのです。なぜならばこの周りにいる人間すべてが、あのような文言を書き示す必然性がないのですから。あるとすればそれこそ、あの言葉の指し示す『自然』そのもの以外に、考えつかないのです。
 あそこに刻まれた文言の一つ一つは、私達に向けて『自然』への触れ方を、そう、文字どおり楽しみ方を述べていることには間違いはないでしょう。そして、そのようなことを人に言えるものが何かというなら、それは見渡したところ『自然』そのものしか見当たらないのです。
 ですがそれには、それだけきちんと理解できるだけ、受ける人の側にも分別が備わっている必要があります。してみると、今の人はそれだけ進歩しているのだと相手も認めてくれたのではないでしょう?。
 石器に文字が刻まれていて、それが理解できるのならば頭の良い証拠。ならば、この小言くらい耳にして、考えてみなさい。そう自然が言ったようにも感じられるのです。
 ではなぜあの石碑は消えてしまったのでしょうか。その理由も簡単なことです。結局あの石碑が『不自然なもの』にほかならなかったからなのです。
 ……でもそのかわり、その姿の虚像と、伝えるべき言葉は残りました。
 言葉は気持ちを伝えるものです。この言葉がつながる限りは、心も通っているから大丈夫。そういうことなのかもしれません。
 ――まだまだ人は自然から見放されてはいなかったようだ――これが、私の考えついた結論でした。そしてこう考えることで、納得することにしました。
 高いところというのは、天が近いせいか、ふだん考えつかないような大きなことを考えつくようようです。
 この日も、秋にふさわしくどこまでも空が高くて、澄み渡るような展望が楽しめました。

 後日、谷山さんの記事が雑誌に載り、夏山のミステリーということでかなり騒がれたのですが、そのころには白馬三山ともに初雪をかぶって、里の騒ぎなど気にもとめずに、春までの長い眠りに着いたのでありました……。

《1993年12月1日発行 山の文芸誌『ベルク』No.64号に筆名・和曇江藹楽にて寄稿掲載・ここに転載にあたり筆名・百名井雄山で記載
 》